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蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉

蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉

 

松尾芭蕉の句に「蛸壺やはかなき夢を夏の月」がある。夏の月が、こうこうと夜の海面を照らす海の底で、蛸壺のタコは捕らわれの身とも知らず、なんとはかない夢をむさぼっていることだろうという意味に解されている。また、”はかなき夢”には、平家一門にまつわる哀れを重ね合わせているという解釈もある。

俳人の松岡青蘿が、明和5年(1768年)の芭蕉75回忌にあたり明石人丸月照寺境内に「蛸壺塚」を建立している。

 

松尾 芭蕉(まつお ばしょう)

寛永21年(正保元年)(1644年) – 元禄7年10月12日(1694年11月28日)
江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。幼名は金作。俳号としては初め宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。

芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。

元禄2年3月27日(1689年5月16日)に弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名である。

 

松尾芭蕉の不易流行とは?

不易流行とは俳聖・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の中で見出した蕉風俳諧の理念の一つです。

芭蕉の俳論をまとめた書物『去来抄』では、不易流行について、以下のように書かれています。
「不易を知らざれば基立ちがたく、
流行を知らざれば風新たならず」
去来抄

不易流行の『不易』とは、時を越えて不変の真理をさし、『流行』とは時代や環境の変化によって革新されていく法則のことです。
不易と流行とは、一見、矛盾しているように感じますが、これらは根本において結びついているものであると言います。
蕉門に、千歳不易(せんざいふえき)の句、一時流行の句といふあり。
是を二つに分けて教え給へる、其の元は一つなり。
去来抄

去来抄の中にある向井去来の言葉です。
「千年変らない句と、一時流行の句というのがある。
師匠である芭蕉はこれを二つに分けて教えたが、その根本は一つである」
という意味です。

まとめと関連情報

 

蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉
夏の月蚊を疵(きず)にして五百両 其角
悲と魂でゆくきさんじや夏の原‥北斎(辞世の句)
春宵一刻直千金(蘇軾『春夜』)
松尾芭蕉の不易流行とは?

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