三波春夫さん 「元禄名槍譜・俵星玄蕃」の名セリフ
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時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて
響くは山鹿流陣太鼓、しかも一打ち、二打ち、三流れ、
思わず、はっと立ち上がり、耳を澄ませて、太鼓を数え
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各々方、覚悟はよろしいか。忠臣蔵
そもそも、各々方(おのおの‐がた)とは、‥。調べてみると、「二人称の人代名詞。複数の人を敬っていう語。近世、武士の用語。あなたがた。皆さん。」との解説がある。言い換えると、それぞれ、各各(おのおの)、個個(ここ)‥。英語表現では「each」
第2回NHK大河ドラマ(昭和39年)は、長谷川一夫が主役の大石内蔵助を演じた大佛次郎原作の『赤穂浪士』。当時は、「各々方、討ち入りでござる」というセリフが日本中で流行ったとか‥。
なぜ、「仮名手本忠臣蔵」なのか
突然ですが、なぜに「仮名手本」というのかご存じだろうか? 実は、討ち入り義士たち「四十七士」を「いろは四十七文字」になぞらえているとか‥
「ではおのおの方、ぬかりなく」‥NHK大河ドラマ「真田丸」
この「各々方(おのおの‐がた)」という言い回しは、時代劇にどんぴしゃなのですが、NHK大河ドラマ「真田丸」でも、同様の言い回し「ではおのおの方、ぬかりなく」が流行っていましたね。真田昌幸役を演じた俳優・草刈正雄さんのセリフです。
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大高源吾(忠雄)とは
赤穂浪士四十七士の一人、大高源吾(子葉)とは‥
そもそも大高源吾とはどのような人物だったのでしょうか? Wikiによれば、大高 忠雄(おおたか ただお、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人で、本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。通称は源五・源吾(げんご)。子葉という雅号を持ち、俳諧にも事績を残した、と記載されいます。大高家は平安時代から続く名門だったようです。
大高源吾(子葉)の辞世の句:梅で呑む茶屋もあるべし‥
討ち入り当日の夕方、両国橋での其角とのやりとりで詠んだ句、
「年の瀬や、水の流れと人のみは」
「明日 またるる その宝船」
これが大高源吾の辞世の句と思っていましたが、勘違いでした。
Wikiによれば、吉良屋敷への討ち入りでは、忠雄は表門隊に属して大太刀を持って奮戦。吉良義央の首をあげ、一行は浅野長矩の眠る泉岳寺へ入った。泉岳寺では子葉を知る僧侶から一句を求められ、「山をさく刀もおれて松の雪」の一句を残しました。
江戸幕府により大石の嫡男大石良金らとともに芝三田の松平定直の中屋敷へ預けられ、元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士へ切腹が命じられ、忠雄は松平家預かりの浪士10人の最後に切腹の座につき、「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」の一句(辞世)を残しています。
松平家家臣の宮原頼安の介錯で切腹。享年32。戒名は、刃無一劔信士。宮原は、この介錯の後、著名な俳人でも殺さねばならない武士稼業というものに嫌気がさし、武士を捨てて酒屋に転じたいうことです。
大石内蔵助の「あら楽し思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」はじめ、赤穂浪士の辞世には各人の思いとともに、詩作の技量も読みとれます。この句は秀逸で、簡潔かつ季節感にあふれています。子葉は無類の酒好き、酒豪でした。そこに「梅」「茶屋」を取り合わせたのは、さすがです。
徳川綱吉の裁断:「以って瞑すべし」とは‥
討ち入りを義挙とした江戸市民の声に、5代将軍・徳川綱吉も相当に判断に迷ったようですが、とある映画で観た、「以って瞑すべし」と裁定した言葉が脳裏に残っています。なんでも、上野寛永寺の住職の回顧譚には、「将軍がやってきて、いろいろ事情を説明 してくれるので、これは、私から助命嘆願 して欲しいのだな、と察しがついたが、本物の乱暴者であっては困るので、気づかない振りをしておいた。」ということですが、映画では、この住職が、「以って瞑すべし」と回答したシーンを覚えています。ちなみに、この「以って瞑すべし」ですが、仇討ちという手柄を立てたことを冥土の土産にして安らかに眠れ、という意味と解釈しています。
年の瀬や水の流れと人の身は‥ 大高源吾
毎年、12月14日の討ち入りの日には、テレビで特集が組まれますが、
大高源吾と室井其角の「両国橋の別れ」でのやりとりも好きです。
「年の瀬や水の流れと人の身は明日待たるるその宝船」
討ち入りの日の夕方、大歳のすす払いの「すす竹」売りに身をやつした源吾は、
両国橋で、俳諧仲間の師匠「宝井其角」と偶然会います。
其角は、源吾の身なりを見て、その落ちぶれようが本当だと勘違いし、
もう合うこともあるまい、と自分の羽織を与えます。そして、最後に付け句を、と、
橋の上から隅田川の流れをを見ながら、「年の瀬や、水の流れと人のみは」と出します。
これに対し、源吾は、その夜が「吉良邸」への討ち入りですから、
「明日 またるる その宝船』と返すのです。
ちなみに、討ち入り当日に吉良邸で茶会が開かれることをつきとめた逸話はよく知られています。
⇒ これが簡単!七福神のユニークな覚え方
大石内蔵助良雄 辞世の句
大石内蔵助良雄 辞世の句
「あらたのし 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月にかか雲なし」
大石 良雄(おおいし よしたか)は、江戸時代前期の武士。
播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした
人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名となる。
「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。
一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られています。
最後の忠臣蔵 オリジナル・サウンドトラック
最後の忠臣蔵(2010)といえば、『四十七人の刺客』などで知られる
池宮彰一郎の同名小説を、テレビドラマ「北の国から」シリーズの演出を手掛けた
杉田成道が映画化。赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件で大石内蔵助率いる四十六士が
切腹して主君に殉じた中、 ひそかに生き残った二人の男の知られざる物語を
描いたものです。正直、泣けます。出演:役所広司、佐藤浩市 他
1.最後の忠臣蔵~夢なれど~
2.道行
3.討ち入り
4.重き使命
5.風の予感
6.見初め
7.紅葉の下
8.雪山の彷徨
9.母の言葉
10.ひそかな恋慕
11.内蔵助の秘密
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元禄15年は1702年です
ときどき、検索してしまうのが
和暦-西暦の変換です。
日本って独特ですよね。日本の文化なのですが
世界共通的には、ちょっと不便な和暦-西暦の変換。
ところで、
なぜ、元禄15年なのかですが‥
芭蕉が永眠した元禄7年から
7年後の元禄14年3月14日 (旧暦) (1701年4月21日)、
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、
江戸城松之大廊下で、吉良上野介吉央
(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りかかった
赤穂事件が発生。
元禄15年12月14日 (旧暦) (1702年1月30日)、
吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ちとった
(吉良邸討ち入り)。この時討ち入りに
参加した人数は大石以下47人(四十七士)である。
事に端を発する。斬りかかった理由は、
何らかの「遺恨」が原因との事だが
詳細は不明である)。
つまり、吉良邸討ち入りは元禄15年、1702年の出来事。
ただ、これは旧暦なので、
グレゴリウス暦(新暦)だと、翌年の「1月30日」に
なってしまいます。
なので、吉良邸討ち入りは1703年なんて言う人が
いるようですが、ナンセンス!
赤穂浪士47とは
赤穂浪士(あこうろうし)は、
元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜に
旧主浅野長矩の仇である高家吉良義央の
屋敷に討ち入り、吉良義央および家人を殺害した
(赤穂事件)元赤穂藩士大石良雄以下47人の武士。
赤穂浪士の扮装。歌舞伎などの創作において
広まった典型的な討ち入りの装束だが、史実ではない。
かつては赤穂の牢人(浪人)といわれることが
多かったが、明治の中期から赤穂義士(あこうぎし)と呼ばれ、
忠孝の教えの観点から戦前は全国的にも赤穂義士の
名称が一般的だった。明治以降壬生浪士の影響から
浪人を浪士と称することもある。戦後、大佛次郎の小説が
テレビドラマ化されてからは、赤穂浪士の方が
周知されている。四十七士(しじゅうしちし)ともいう。
赤穂浪士/片岡千恵蔵[DVD]
赤穂義士と謳っていた47士を
“赤穂浪士”と名づけ、反権力のレジスタンスとして
描いた大仏次郎の名作を映画化。
片岡千恵蔵、中村錦之助、大川橋蔵、市川右太衛門ら、
東映時代劇黄金期のオールスターを大結集して
製作された東映創立10周年記念作品。
1961年3月公開。
監督 松田定次
出演 片岡千恵蔵
中村錦之助
大川橋蔵
市川右太衛門
脚本 小国英雄
日本人の忖度と惻隠の情とは
いま、日本人の惻隠の情が失われていると‥(藤原雅彦さん)
「惻隠の情」というのは、中国の古典である
孟子の言葉から来ているのですね。「子供が井戸に落ちそうになっていれば、危ないと思わず手を差し延べたり
助けに行こうとする」人として忍びずの気持ち・心は、
人間皆生まれ持ったものであり本来そうした気持ちが備わっているはずだと
孟子は言うのです。そして、武士道の教えの中に示されている、
平たく言えば思い遣る心。
哀れに思う気持ち。可哀想であると感じる心持ち。
心に太陽を持て そして、唇に歌を
楽観的になれ!
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