名月を取ってくれろと泣く子かな‥小林一茶

名月を取ってくれろと泣く子かな‥小林一茶

小林一茶は松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人で、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立しました。

子供の生存率が今よりもずっと低かった、であろう江戸時代に、次々と子供が夭逝した一茶の気持ちはいかばかりだったのでしょうか? そんな我が子を想いながら詠んだ句だと思われます。

    名月を取ってくれろと泣く子かな

小林一茶(こばやし いっさ)とは

宝暦13年5月5日(1763年6月15日) – 文政10年11月19日(1828年1月5日)
俳人。本名は小林弥太郎、一茶とは俳号。

信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。

小林一茶の俳句の特徴‥作品数の多さ(21200句)

一茶の句の特徴として挙げられるのがまずその作品数の多さである。作品数は21200句近くとされ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句と比較して圧倒的な多さであり、新たな句が発見され続けている。

膨大な作品の中には、互いに類似する作品が数多くみられ、例えば

雪とけて村いっぱいの子どもかな
雪とけて町いっぱいの子どもかな

名月を取ってくれろと泣く子かな
あの月を取ってくれろと泣く子かな

 

望月(もちづき)と待宵(まつよい)

望月(もちづき)

陰暦十五夜の月。特に、陰暦8月の十五夜の月。満月。もちのつき。

待宵(まつよい)とは

《翌日の十五夜の月を待つ宵の意》陰暦8月14日の夜。小望月 (こもちづき) 。
待宵を終 (つひ) に雨来し梢かな/大谷句仏」

大谷句仏(おおたに‐くぶつ)
[1875~1943]俳人。真宗大谷派の第23世法主 (ほっす) 。京都の生まれ。名は光演。俳誌「懸葵 (かけあおい) 」の中心的メンバー。句集に「夢の跡」「我は我」など。

 

十六夜は待宵程に晴にけり 正岡子規

 

    十六夜は待宵程に晴にけり 正岡子規

まとめと関連情報

これがあの有名な俳人の句と聞いて、その人物の生い立ち、歴史を知らずして単に、鑑賞しただけでどれだけの心情をくみ取ることができるだろうか‥そんなことを考えてしまう一句です‥

子供の生存率が今よりもずっと低かった、であろう江戸時代に、次々と子供が夭逝した一茶の気持ちはいかばかりだったのでしょうか?

名月を取ってくれろと泣く子かな‥小林一茶

 

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